Allgood-Life!! バカンスはモザンビークにて。

コミュニティ開発隊員として2018年1月から2年間、モザンビークのリバウエという田舎町に行ってます。おいでよリバウエ

モザンビークの歴史的な(結構長いっす)

ども、小倉です。

 

今日は特に書くべきトピックがあるわけではないのですが、せっかくブログを読んでいただいている皆様にモザンビークのことをもう少し知ってもらおうと思い、

 

モザンビークの歴史 とそれにかかわるアフリカ史

 

についてざっと書こうと思います(書き終わって気づいたけど結構長くなった)。興味ない人はすんません。興味ある人だけご覧ください。

 

あと、ここから書く自分の理解は基本的に書籍「モザンビークの誕生 水谷章 著」を読んでのものとなっています。興味ある人はこれも読んでみてもいいかも。ほとんどいないかw

 

基本的には箇条書きスタイルで行きます。

 

 

<世界大戦以前>

l  15世紀、ヨーロッパの弱小国であったポルトガルエンリケ航海王子ヴァスコ・ダ・ガマバルトロメウ・ディアスなどの活躍により喜望峰に到達。いわゆる東回り航路を開拓してスパイスなどのインド洋貿易を開始。アフリカ東海岸に到達したポルトガルは同拠点を中心にアラブ商人とかインド商人が奴隷貿易を行っていたことを知り、影響を受ける(影響を受けるってのは、要するにマネするってことですね。これ、受験勉強してた頃にズバっと言ってた講師がいてものすごく腹落ちした)。ポルトガル海上進出を図った理由は、大陸側にはスペイン・フランスなどの大国が存在し進出ができないと判断したため。尚、東回り航路の確立により当時主流だった地中海貿易が打撃を受け、同貿易の中心地だったベネチアは衰退することになる。

l  16世紀、バルト海貿易で富と海運業ノウハウを蓄積していたオランダがポルトガルにとって代わって海上貿易のトップランナーになる。オランダ台頭及びポルトガル失速の理由は、オランダがスペインから独立したこと。オランダは自由に活動できるようになったが、属国をなくしたスペイン・ハプスブルグの王フェリペ2世はポルトガルの王位継承権を主張し、ポルトガル王位に就いてしまう(ほぼ併合)。尚、ポルトガルはアフリカをインド洋貿易の中継・補給地点としてしか見ておらずあまり入植していなかったが、オランダはケープに対して積極的な入植活動をしていた(入植者はボーア人と呼ばれる)。フランスに於けるフォンテーヌブロー勅令によりナント勅令(アンリ4世が発したプロテスタント信仰を認めるというもの)が廃止されたため、ユグノーと呼ばれるプロテスタントがオランダ経由でケープを目指したことも要因の一つ。

l  18世紀、オランダに代わり英国が海上貿易のトップランナーとなる。オランダ失速の理由は、国内市場の小ささ。さらに急速に公開技術を進歩させた英国との戦争に敗れたことも大きい。ここから20世紀までの期間はパックスブリタニカと呼ばれ、英国の黄金時代である。大西洋三角貿易(アフリカの奴隷をアメリカ大陸のプランテーションへ。プランテーションで作られた砂糖とかが欧州へ。欧州で製作された工業品がアフリカで売りさばかれる)が隆盛を極めたのもこの時代。

l  アフリカの西と東(現在のアンゴラモザンビーク)に植民地を持っていたポルトガルであるが、本国も欧州の弱小国であり周辺大国のスペインやフランスとの関係性を考慮して英国の庇護を求めることが多かった。特に、ナポレオン戦争に於けるナポレオン軍のリスボン進行とそれに伴うリオデジャネイロ遷都(ポルトガルの首都機能をブラジルに移転したこと)を受けて英国依存は決定的なものとなった。

l  19世紀、ポルトガルは兼ねてより夢想していたアフリカ横断(現在のアンゴラからザンビアジンバブエマラウイを通ってモザンビークまでを植民地とするもの)を現実のものとすべくバラ色地図を発表したが、アフリカ縦断政策(カイロからケープまで)を掲げる英国の強い反対を受け、断念。アンゴラモザンビークの領有は認められたが、それ以上(マラウイザンビアジンバブエ)についてはあきらめることとなった。これがきっかけで王政が終わり、ポルトガルでは共和制が発足する。ちなみにフランスもアフリカ横断政策(モロッコとかからスーダンを経て紅海へ抜ける)をとっていたが、英国とスーダンのファショダで対峙。武力衝突には至らなかったもののフランスが撤退してフランスもアフリカ横断政策を断念した(ファショダ事件)。英国強し。

l  ここから分かることは、ポルトガルが欧州の弱小国であったためにモザンビークもその影響(ポルトガルが存続するための交渉材料として使われる)を強く受けているということである。また、世界大戦以前はモザンビークという国の概念はないことも驚きである。第二次世界大戦後のバンドン会議に至るまで、モザンビークポルトガル領東アフリカでありそれ以上でもそれ以下でもないものだったようだ。

 

<世界大戦以後>

l  1955年のバンドン会議で植民地独立の機運が世界的に高まる。モザンビークも例外ではない。いくつかの解放組織(独立運動の実行組織)がこの時期に生まれる。しかし、解放組織の活動にまとまりがなく散発的なものであまり効果的な活動とは言えない状況であった。また、モザンビークに加えて南ア、ローデシアなどの白人国家(少数白人が大多数の黒人を統治する)同士で協力関係を結んでおり(白い三角同盟)、これらの国では独立運動の鎮静化を共同で図っていた。

l  ポルトガルでは1930年代からサラザールによる独裁体制が敷かれていたが、サラザールによる植民地政策は以前よりも強烈で厳しいものであった。厳しい取り締まりが遠因の一つだろうか、1960年に現在のカーボデルガド州ムエダにてポルトガル軍がデモ隊に向けて発砲し600人以上の死者を出すというムエダの虐殺が起こった。これによりモザンビークに於ける反ポルトガル感情が高まり、独立に向けた動きがさらに加速することになる。

l  米国の大学で教鞭をとっていたエドゥアルド・モンドラーネがモザンビークに帰国し、独立に向けた解放組織の糾合に奔走する。1962年、独立開放に向けた主力3組織が統合され、現在の与党であるフレリモが誕生する。フレリモはすでに独立していたタンザニアにて発足し、同国を拠点にしてモザンビーク領内でポルトガルに対して独立運動を展開することとなる。タンザニアがフレリモを支援した理由:ジュリウス・ニエレレ大統領が民族主義者(パンアフリカ主義)であり、周辺植民地の宗主国からの独立はタンザニア独立と等しく重要であると考えていたため。

l  アフリカでは1960年代に多くの国が宗主国から独立したが、ポルトガル宗主国とする国(モザンビークアンゴラ)が独立を達成するのは1970年代の声を聴いてから。欧州の弱小国であったがゆえに植民地への依存傾向が高かったことに加え、サラザールの独裁が諸々の都合により1970年まで続いたことがその理由と言われている(本来であればポルトガルの独裁体制は英米から批判される背景であったが、ポルトガルが大西洋上に持つアゾレス諸島の軍事的重要性を踏まえて、米英はポルトガルに対して甘かった。時はすでに米ソ対立の冷戦状態でポルトガルソ連側に下るというのはアゾレス諸島に空軍基地が建設されることを意味していたため)。

l  フレリモにはモザンビーク全土から国士、勇士、活動家など独立に向けて強い意思を持つ人間が集まっていたが、組織内の権力闘争は凄まじいものがあった。特に植民地経済の中心だった南部出身者(モンドラーネやのちに大統領となるサモラ・マシェル、ジョアキン・シサノ)がフレリモ内の主要ポストを固めたことは北部出身者の強い不満や反発を生んだ。また、血統主義的な点もあり、先祖に白人の血が入っていることが組織内で反感を買うこともあった。反フレリモ主流派(主に北部出身者)は後にレナモを発足させ、フレリモと対立していくこととなる。

l  1963年、ポルトガル植民地政府の横暴に対してロレンソマルケス(現マプト)港で港湾労働者たちがストライキを実行。元々、植民地政府に対して不満を持っていたモザンビーク人の間で瞬く間に暴動へと発展し、フレリモもポルトガルに対して組織的戦闘を開始した。タンザニアに置かれていたフレリモ本部(バガモヨ・センター及びナチングウェア・センター)にてフレリモ幹部に対する初等・高等教育(読み書きそろばんからゲリラ闘争の方法論等)が行われていたという。

l  フレリモ内対立の結果とも言えるだろうか、1969年に書記長だったエデュアルド・モンドラーネが暗殺される。ポルトガル秘密警察の暗躍やフレリモ内反主流派の仕業と言われるが、真相は闇の中である。尚、サモラ・マシェルがフレリモトップの座を継ぎ軍司令官となる。

l  1970年、ポルトガルサラザール首相が死去し、ポルトガルでの独裁体制が終わる。1974年にはカーネーション革命が起こり、ポルトガルの政治体制が崩壊する。これが独立運動の決め手となり、ポルトガル―フレリモ間で停戦交渉が開始され、同年中に協定が締結される(ルサカ協定)。翌1975年に独立を達成する。 

 

<独立後>

l  独立闘争の最中、ポルトガルVSモザンビーク という対立の中でポルトガル=親英米であったことから、必然的にモザンビーク(フレリモ)は親ソ連社会主義であった。独立達成の前から元々存在したフレリモ内の反主流派や反社会主義者らは、ポルトガル植民地政府の秘密警察PIDEを中心に、白い三角同盟の一角であるローデシアの支援を受けて反フレリモ・反社会主義のレナモ(当時は英語名でMNR)を設立する。独立達成の直前、1974年のことであった。

l  独立の直後から、フレリモとレナモは内戦を開始。レナモはローデシアの支援を受けて同国領内に潜伏しながら、モザンビークの町・村・公共施設へ越境攻撃を繰り返した。1980年代にレナモの攻撃は一層激しくなり、文字にするのも憚られるような暴虐の限りが尽くされたという。

l  他方、ローデシアでも政変が起きようとしていた。モザンビークと同様に少数の白人(英国人)が大多数の黒人を統治する図式だったが、矢張り宗主国からの独立を目指して黒人民族主義運動が活性化。モザンビークポルトガルから独立したことは、同国との1200キロを超える国境線を持つローデシアの黒人民族主義運動をさらに活性化させ、最終的に1980年にジンバブエとして黒人国家が誕生することとなった。

l  ローデシアにおける混乱と政変によりレナモの攻撃は収まるかと思われたが、そうはならなかった。白い三角同盟の最後の一角である南アに接近したのである。南ア白人政権は元々白人国家であったモザンビークローデシアがまるでオセロのように次々と黒人国家へと変わっていくことに危機感を感じていたこともあり、レナモの接近(=モザンビーク・フレリモ政権の不安定化、理想的にはフレリモ政権の打倒とレナモ=資本主義政権の樹立)は渡りに船であったと言える。

l  スパイマスターのチェンジが成功したレナモは南アの支援を受けて再びフレリモ・モザンビークに対する攻撃を開始する。レナモ攻撃に悩むモザンビークのマシェル大統領はソ連へ支援を打診するが断られたため、南アとの和解(南アによるレナモへの支援停止)を求めて米国へ仲裁を依頼。アフリカにおける東西冷戦の本格的戦争化を嫌った米国は南アに対して強く働きかけ、1984年に相互不可侵善隣条約(俗にいうンコマチ協定)を締結した。これにより南アによるレナモ支援は(表向きは)停止となった。

l  1986年、謎の航空機事故によりマシェル大統領が死亡する。マラウィのバンダ大統領との会談直後であった。本会談はモザンビーク、マラウィ、ザンビアジンバブエ4大統領による会談で、マラウィによる対フレリモ工作の停止要求であった。喧々諤々の議論をしたものの、会談は不調で対フレリモ工作の停止要求が通ることはなかった。そしてその夜、モザンビークに帰国するためにマシェル大統領が搭乗した飛行機が、謎の墜落事故を起こすのであった。この墜落事故は南アが黒幕ではないかと言われているが、事故に関連する文書が南ア白人政権から黒人政権に移行する際に「すべて紛失」してしまったため、真相は闇の中である。

l  マシェルの後任として、ジョアキン・シサノがモザンビークの第2代大統領となる。

l  1989年のベルリンの壁崩壊、1992年のソ連崩壊により国際政治の枠組みとしての冷戦構造が崩壊。これにより東西両陣営からの戦略的支援が打ち切られ、モザンビーク国民内にも内戦の疲弊や一党独裁社会主義)の限界、資本主義を求める声などが高まり、ソ連崩壊と同年の1992年にフレリモ―レナモ間で和平合意が成立した。

l  和平合意後は第2代大統領ジョアキン・シサノ、第3代大統領アルマンド・ゲブーザの両大統領の時代(2014年まで)にモザンビークは年率67%という飛躍的な経済成長を遂げる。尚、2008年にレナモからMDMモザンビーク民主運動)という第二野党が誕生する。党首はベイラ市長デイヴィス・シマンゴ。フレリモ創生初期にエデュアルド・モンドラーネ党首を支える副党首を務めたウリア・シマンゴの息子である。

l  2014年にフェリペ・ニュッシが第4代大統領に当選した。モザンビーク大統領の任期は5年なので、来年には大統領選なのか。。。?再選を果たせば2024年までニュッシ大統領の時代となる。

 

 

隠し債務やODA資金の軍需設備転用などが発覚し国際世論からの冷たい目線が刺さるモザンビークだが、日本の2倍の広大な国土、内陸国まで続く大きな河川、温暖な気候と綺麗な海岸線、近年発見された天然ガス、堅調な人口増加率と隣接する南アという巨大市場があり、その成長潜在力は申し分ないという。実際、日本にいたころはあまり考えたことのなかった「発展している感」を実感することがとても多い。

自分が住んでるのは田舎のイチ農村ですが、とりあえず、ダイナミックに動く経済に負けない様に頑張って活動します。

 

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子供にカメラ渡したら勝手に取られてたやつ