雨降って、水道濁る(圧倒的マイノリティとしての異文化適応について)
タイトルは本文と全く関係ないっす。自分の任地では水道は山からの湧き水を使っているみたいなんですが、雨が降ると土砂が紛れ込むのか、濁ります。そうすると勿論水は飲めないし、洗濯もできないっすね。プチ断水が続いていて、ちょっと嫌な感じの毎日です。そんで、カッコ書きの部分が本来題名になるとこですね。
すんません、今日あった出来事を吐き出させてください。あんまりいいものではないです。見なくても全然いいです。
今日、昼休みに飯を食おうと近くの市場に繰り出しました。飯といってもこの間美味しいドーナツ(砂糖付き)を発見したので、それを食べようとしていました。
市場に行ったんですが、目当てのドーナツ(砂糖付き)はなく、砂糖なしのプレーンドーナツだけありました。
まぁ仕方ないかと思い1個買って食べていて、その間もドーナツ売りのおばちゃんたちとできるだけ現地語を使って話をしていたんですが(現地語勉強のため。)、通りを挟んで向かいにいる青年が「俺に買ってくれ。腹減っているんだ。買ってくれ。」と言ってきました。
よくある物乞いだなと思い、無視はしなかったんですが「No」と言った後、現地語の勉強になるなーと思ってそいつがどんなことを次に言い出すか観察していました。
そしたらそいつはおばちゃんが売っていたドーナツをつかみ、その場で食って俺を見た後、元居た通りを挟んだ向かい側に帰っていきました。
周りのおばちゃんたちも「いやいや何喰ってんだよ」って感じだったし、自分もそいつに対して「俺払わないからな!お前が食ってんだからお前が払えよ!」とは言ったんですが
そいつは意にも介さず「だって金ねーし」といわゆるケツまくった状態。
結局、金を持っているくせにケチな日本人は、周囲のおばちゃんたちに「ごめん」とだけ言って帰っていきました。
自分はこの時どうするべきだったのか、明日どうすればいいのか、すげー悩んでます。
いくつか選択肢があったはず。思いついたやつ書いていきます。
① 自分が金を払う。
はっきり言ってドーナツ1個なんて大した金額じゃない。日本円にして2円くらい。日本のサラリーマン時代と生活レベルは違っても、金額の大小だけで考えたら大したことはない。でも払いたくない。だって払う道理がない。俺が食ったなら俺が払う。俺が買ったなら俺が払う。でも勝手に取っていったやつ(しかも悪びれる様子もなく)の分を自分が払うのは納得できない。そいつは味を占めて今後もそうやって俺にたかろうとするかもしれない。その意味でも払いたくない。でも、このままだと被害者のおばちゃんがかわいそうだ。
② 青年に払うように詰め寄る。
多分これを選択したら、「金ないVS払え」の空中戦が勃発するんだと思う。そんで次第に言葉が荒っぽくなって挑発からケンカというパターンもあり得る。サラリーマン金太郎みたいに自分が腕っぷしに自信があったら、もしかしたら詰め寄ったかもしれない。でも、自分はそんなに自信がある方ではない。相手は黒人だし。そしてここはモザンビーク。青年の味方をするモザン人が出てくると思った。だって「我らが同胞の相手は金持ち日本人でついこないだ来たばっかり。体はそれなりにでかいけど何人かで束になれば問題なく倒せるだろう」。俺は金払えって詰め寄った結果、有り金と手持ちのスマホ取られて泣きを見る可能性が高いと思った。だから、できなかった。弱虫。
結果、おばちゃんに「ごめん」とだけ言い残して去っていくという、なんとも情けない、日本男児らしからぬ(もしかしたら典型的なのかもしれないが)行動を選択してしまった。
結果、一番の被害者はおばちゃん。そのおばちゃんももしかしたらこう思っているかもしれない。「金持ち日本人は1個売り上げに貢献したけどその分マイナスも持ってきた。ってか金持ち日本人なら1個分くらい払ってくれてもいいのに。」
日本で協力隊OBOGの話を聞いているときにも、何度も出てきたお金の場面。クレクレ攻撃。あの時は正直言って「そんくらい別に払ってやってもいいじゃん」って思ってた。でも今ならすごくわかる。このくだらないんだけど無視することのできない、そしていい解決策が思い浮かばない、難題。
自分が金を払うことで今後どのような見方をされるか、
同様に、金を払わないことでどのような見方をされるか、
悩んでます。
自分が金を払わない理由はいくつかある。
A 金を払う理由がない
B 金を払った後の自分の見られ方が嫌だ
C 金を払った後のあいつの「意地を通したら何とかなるじゃん」って考えを助長しかねない
それでも、なぜ何の罪もないおばちゃんが一番の被害者にならなければならないのか、そこまで自分も自分の意地を貫き通すことに意味があるのか。
悩んでいます。
今のところ考えているのは、明日、「ドーナツ食い逃げ野郎からお金はもらえたか」を確認すること。そして、仮に払われていないようだったら、あいつには内緒にしたうえで俺が払うこと。
ちょっとこれとは話が違うけど、クレクレ攻撃にはやっぱりずっと悩むかもしれない。職場でも道端でも何かと「買ってくれ」と言われる。それはパソコンみたいな高価なものだったり、腹減ったからゆで卵買ってきてくれよ、みたいな安いものだったりいろいろだけど基本的にすべて断っている。上述したように道理がないからだ。なぜ俺が自分で使わないパソコンを買わなければならないのだ。なぜ俺がお前のためにゆで卵を買わなければならないのだ。
一方で、確かに施しを受けることもある。正直に言って別に食いたくもない生の落花生だったり、キャッサバだったりするのだが、「いらない」というのも若干気が引けるし、できれば同じ目線に立って関係性を構築したいところから、とりあえず頂いている。
まだこれが交渉に使われたことはない。でも、もしかしたら今後は交渉材料に使われるかもしれない。「あの時落花生あげたじゃん。キャッサバあげたじゃん」。その時にどう答えるのか。
確かにもらったけど特に食いたくはなかった
確かにもらったけどあんまうまくなかった
特に頼んでもらったわけじゃない
それとこれとは別問題
どんな答えでも結局壁ができてしまう。仕方ないのかもしれない。本当に仕方ないのか?活動対象は農民だから、同僚とは多少壁ができても仕方がないのか?今後もずっと(2年間)微妙な距離感と関係性の中で働かなければならないのか?
多分、日本で仕事しているときのお客さんだったら、いろいろと折れているんだろうな。仕事のためって言い聞かせられるから。その方が効率よく業務が回るからって。最終的に効率よく稼ぐことだけ考えていれば、上司も納得したしそれが会社のためだと思っていた。現実的にどうすればスムーズに落ち着くのかという状況判断の能力は、はっきり言って評価の対象にもなる。
でもボランティアだと、すごく立ち位置が微妙になる。というか、自分を殺してまでボランティアをしたくない、というのが本音かもしれない。結局、自分は自分のためにボランティアをしているんだなということが、書いていて思ってきた。モザンビークのため、SDAEのため、農民のためではないのかもしれない。自分の経験のため。自分の世界を広げるため。
すごく自分勝手なことを書いているのは認識している。でもなんか言語化したかった。
そんなことを考える、任地1か月ちょいの夜。
異文化適応の事例研究みたいになってしまった。
コミュ開としてやばい感じの考え方になってるかな。。。そうだと感じる人がいたら、ぜひご連絡ください、お願いします。