54年前の今日と最近の出来事
本日モザンビークは国民解放軍記念日(別名:軍人の日)ということで、仕事は休み。
小倉です。
ちなみにこの国民解放軍記念日ってのは、ポルトガルとの独立戦争を正式に始めた日のようです。1964年だから、今から54年前。記念すべき(?)開戦の火蓋を切る弾丸を放ったのは、現在も生存する大御所政治家のアルベルト・シパンデ。独立戦争を(物理的に)始めた人間がまだ国の中枢にいるってのは、国としての若さを考えさせますね。例えが雑だけど坂本龍馬がまだ生きているみたいな感じでしょ?まぁそんなことは有り得ないんですけど。
実は最近はイベント盛りだくさんだったんですよ。
分科会はこないだ書いたけど、それ以外にも
- 先輩隊員のデスペ(いわゆるお別れ会的な)
- モザンビーク島の日
- モナポの日
なんてのがありましたので、今回はその辺を書こうと思います。
先輩隊員デスペ
1年に4回の入れ替わりがある協力隊では人の出入りがめちゃくちゃ激しいんですが、人気を全うした隊員を送り出すときには盛大にお別れ会をします。といっても最初の方は送り出す人間のことがあまりわからないまま参加する、なんてのも割とあることなんですが、自分もモザンビークに来て8か月経ち、今回の隊員くらいから自分の中で色々と思い出的なものが出来ていたので、結構食らいました。
詳細は割愛しますが、ざっと写真だけ紹介します。
なぜか。
自慢したいんで!!
ショーカスやべー!!!
とりあえず、デスペはこれで終わりますw
モザンビーク島の日
なぜこの日なのか、1818年に何があったかは分かってないんですが、とりあえず9月17日はモザンビーク島の日なんですね。
そんで今年はちょうど200周年記念!モザンビークの大統領に加えてポルトガルの大統領や前アメリカ大統領のオバマが来るとか、いろんな情報が飛び交っていましたが!
結果だれが来たか!
よくわかりませんでした。でもとりあえずモザンのニュッシ大統領は来てました。
望遠レンズ持って行っていればもっとでかく撮れたのに。。。せっかく持ってきていたのに。。。
でも想像以上に近いところにいて、結構びっくりした。多分距離にして10メートル弱くらいかな。
隣の白人がだれかわからんのだけど、、、BCIの社長とかかな。
実は当日で祭典っぽいのを見たのはここだけで、あんまりそれっぽい写真がないんですよね。。。どうせ遅れるだろうとか適当なことを考えていたら意外とオンタイムで進められてしまったw
あと、なぜか記念式典が島ではなく大陸側の集会所で開催されることになってたのもあったか。まぁそんなわけで、当日の様子はこれくらいしかないっすわ。
ただ、実はオチーバ祭りっていう前夜祭もやっていて、そこで日本食紹介してたのでその様子もざっと紹介します。
おにぎり、味噌汁と肉じゃがを紹介したんだけど、予想に反して肉じゃがの売れ行きが悪い!おにぎりと味噌汁は外国人でも多少馴染みがあるのか結構売れるんだけど、得体のしれないスープのようなもの(=肉じゃが)は最後まであまり売れなかった。
仕込みの時間が足りず水気を飛ばすまで煮込めなかった、肉じゃがを盛るための器を購入してもらう必要がある、などの要因はあるけれども、おにぎり味噌汁に比べると肉じゃがが受け入れられないというのは、勉強になった。
あと、日本の国旗をこれでもかとアピールした服装はめちゃくちゃ人気だったw
モナポの日
土曜日9月22日はモナポの日でした。モナポはナンプラ州にある郡の一つで、同期のゆーりが赴任してます。そこでソーラン節を披露しようということで、他のナンプラ隊員2人と共にモナポへ。なんと自分の担当調整員が昔ボランティアで活動していたころの当時の上司(所長)がそこの郡長になっていたこともあり、調整員の安原さんもソーラン節に参加していただくことに。
モナポではあの、市街地を高速で走行する
モナポグランプリが開催されていました!間近で見るモナポグランプリはスピード感満載で興奮が抑えられないほど、、、すんません写真はないです。
そんな中でやってきました。ソーラン節。
かなり盛り上がったと思います。中国人ではなく日本人だということを認識してもらえたかなぁ。。。
あと、とりあえず、腿が爆死してます。
ソーラン節を毎日踊るだけで筋トレ兼ダイエットなるなこれは。
どうでもいいんだけど、家の庭に猫が住み着いている。。。
このまま飼ってしまうか。。。
農業分科会を開催してもらいました
2か月ぶりくらいにちゃんと顔を合わせた同僚から、「くそ太ったやん」と言われてしまいました、どうも小倉です。アフリカでも結構余裕で生きれています。
6月末に総会が終わってからというもの、イニャンバネ外遊、長期休暇と任国外旅行、さらにまたイニャンバネでの分科会とかなりの期間で任地を離れ、旨いものに溺れていました。
そら太るわ。
前回までの記事で任国外旅行までは書きましたので、ちょっと前のことだけど今回は分科会について書きたいと思います。
「国民の皆様に対して協力隊のことをより良く理解してもらえるように広報活動するのも協力隊の仕事」ですから。
分科会とは
まぁ読んで字のごとく、「科目ごとに分かれて会を開く」ってことです。現在モザンビークには約50人の隊員がいますが、様々な職種が存在しています。音楽の先生、理数科の先生、日本語教師、薬学の先生、看護の先生、環境対策の公務員、などなど。そんで、自身の活動をよりスムーズに、効果的に進めるために「類似の職種の隊員で合同勉強会しよう」とか「外部講師を呼んで講義してもらおう」ってのが分科会になります。団体視察みたいなのも分科会に入るのかな、多分。
自分はコミュニティ開発隊員として、任地のSDAE(経済活動事務所)で主には農業セクターで勤務していますが、日本でだって農業なんかやったことないから農業知識なんてなんもない。加えて土地も違えば気候も違い、さらに(当たり前だけど)言語が違うから知っていることも知らない様にしか感じられない、という最悪の状況だったわけです。
そんな時にまさに渡りに船。農業隊員で分科会やるよとのこと。
行くっきゃねぇ。
ってなわけで、イニャンバネ州ジャンガモ郡にて開催した農業分科会に参加してきました。
今回の分科会の内容
今回の分科会では、
以上4つについて学習いたしました。主に上2つは座学、下2つは実習ですな。
今回の分科会は外部講師こそ呼んでいないものの、農学部出身の隊員が2人いて彼らが講師役をやってくれました。内容については細かく書かないけど、本当にためになった。次に分科会があるときには、自分たちが主体となってやらなければならないタイミングだと思うけど、あそこまでできるだろうか。。。こっから経験積むしかないっすな。
実習では現地の農家と汗を流して作業をしました。
現地人と同じ鍬を握り、同じ釜の飯を食い、同じ酒を飲む。
血の通ったコミュニケーションってやっぱり大切だなと、心底感じた瞬間でした。
実習地を提供してくれた同期には頭上がりません。
俺も任地で頑張るかぁ。。。
分科会の様子
文字で伝えるのが色々と難しいので、写真を貼っていきます。雰囲気だけでも感じてくれたら最高。と思ったけどなぜかもらった写真が貼れなかった。。。クオリティ落ちるけどギリギリ自分のカメラで撮ったやつ使います。それでは。
モザンビークの歴史的な(結構長いっす)
ども、小倉です。
今日は特に書くべきトピックがあるわけではないのですが、せっかくブログを読んでいただいている皆様にモザンビークのことをもう少し知ってもらおうと思い、
モザンビークの歴史 とそれにかかわるアフリカ史
についてざっと書こうと思います(書き終わって気づいたけど結構長くなった)。興味ない人はすんません。興味ある人だけご覧ください。
あと、ここから書く自分の理解は基本的に書籍「モザンビークの誕生 水谷章 著」を読んでのものとなっています。興味ある人はこれも読んでみてもいいかも。ほとんどいないかw
基本的には箇条書きスタイルで行きます。
<世界大戦以前>
l 15世紀、ヨーロッパの弱小国であったポルトガルがエンリケ航海王子、ヴァスコ・ダ・ガマ、バルトロメウ・ディアスなどの活躍により喜望峰に到達。いわゆる東回り航路を開拓してスパイスなどのインド洋貿易を開始。アフリカ東海岸に到達したポルトガルは同拠点を中心にアラブ商人とかインド商人が奴隷貿易を行っていたことを知り、影響を受ける(影響を受けるってのは、要するにマネするってことですね。これ、受験勉強してた頃にズバっと言ってた講師がいてものすごく腹落ちした)。ポルトガルが海上進出を図った理由は、大陸側にはスペイン・フランスなどの大国が存在し進出ができないと判断したため。尚、東回り航路の確立により当時主流だった地中海貿易が打撃を受け、同貿易の中心地だったベネチアは衰退することになる。
l 16世紀、バルト海貿易で富と海運業ノウハウを蓄積していたオランダがポルトガルにとって代わって海上貿易のトップランナーになる。オランダ台頭及びポルトガル失速の理由は、オランダがスペインから独立したこと。オランダは自由に活動できるようになったが、属国をなくしたスペイン・ハプスブルグの王フェリペ2世はポルトガルの王位継承権を主張し、ポルトガル王位に就いてしまう(ほぼ併合)。尚、ポルトガルはアフリカをインド洋貿易の中継・補給地点としてしか見ておらずあまり入植していなかったが、オランダはケープに対して積極的な入植活動をしていた(入植者はボーア人と呼ばれる)。フランスに於けるフォンテーヌブロー勅令によりナント勅令(アンリ4世が発したプロテスタント信仰を認めるというもの)が廃止されたため、ユグノーと呼ばれるプロテスタントがオランダ経由でケープを目指したことも要因の一つ。
l 18世紀、オランダに代わり英国が海上貿易のトップランナーとなる。オランダ失速の理由は、国内市場の小ささ。さらに急速に公開技術を進歩させた英国との戦争に敗れたことも大きい。ここから20世紀までの期間はパックスブリタニカと呼ばれ、英国の黄金時代である。大西洋三角貿易(アフリカの奴隷をアメリカ大陸のプランテーションへ。プランテーションで作られた砂糖とかが欧州へ。欧州で製作された工業品がアフリカで売りさばかれる)が隆盛を極めたのもこの時代。
l アフリカの西と東(現在のアンゴラとモザンビーク)に植民地を持っていたポルトガルであるが、本国も欧州の弱小国であり周辺大国のスペインやフランスとの関係性を考慮して英国の庇護を求めることが多かった。特に、ナポレオン戦争に於けるナポレオン軍のリスボン進行とそれに伴うリオデジャネイロ遷都(ポルトガルの首都機能をブラジルに移転したこと)を受けて英国依存は決定的なものとなった。
l 19世紀、ポルトガルは兼ねてより夢想していたアフリカ横断(現在のアンゴラからザンビア・ジンバブエ・マラウイを通ってモザンビークまでを植民地とするもの)を現実のものとすべくバラ色地図を発表したが、アフリカ縦断政策(カイロからケープまで)を掲げる英国の強い反対を受け、断念。アンゴラとモザンビークの領有は認められたが、それ以上(マラウイ、ザンビア、ジンバブエ)についてはあきらめることとなった。これがきっかけで王政が終わり、ポルトガルでは共和制が発足する。ちなみにフランスもアフリカ横断政策(モロッコとかからスーダンを経て紅海へ抜ける)をとっていたが、英国とスーダンのファショダで対峙。武力衝突には至らなかったもののフランスが撤退してフランスもアフリカ横断政策を断念した(ファショダ事件)。英国強し。
l ここから分かることは、ポルトガルが欧州の弱小国であったためにモザンビークもその影響(ポルトガルが存続するための交渉材料として使われる)を強く受けているということである。また、世界大戦以前はモザンビークという国の概念はないことも驚きである。第二次世界大戦後のバンドン会議に至るまで、モザンビークはポルトガル領東アフリカでありそれ以上でもそれ以下でもないものだったようだ。
<世界大戦以後>
l 1955年のバンドン会議で植民地独立の機運が世界的に高まる。モザンビークも例外ではない。いくつかの解放組織(独立運動の実行組織)がこの時期に生まれる。しかし、解放組織の活動にまとまりがなく散発的なものであまり効果的な活動とは言えない状況であった。また、モザンビークに加えて南ア、ローデシアなどの白人国家(少数白人が大多数の黒人を統治する)同士で協力関係を結んでおり(白い三角同盟)、これらの国では独立運動の鎮静化を共同で図っていた。
l ポルトガルでは1930年代からサラザールによる独裁体制が敷かれていたが、サラザールによる植民地政策は以前よりも強烈で厳しいものであった。厳しい取り締まりが遠因の一つだろうか、1960年に現在のカーボデルガド州ムエダにてポルトガル軍がデモ隊に向けて発砲し600人以上の死者を出すというムエダの虐殺が起こった。これによりモザンビークに於ける反ポルトガル感情が高まり、独立に向けた動きがさらに加速することになる。
l 米国の大学で教鞭をとっていたエドゥアルド・モンドラーネがモザンビークに帰国し、独立に向けた解放組織の糾合に奔走する。1962年、独立開放に向けた主力3組織が統合され、現在の与党であるフレリモが誕生する。フレリモはすでに独立していたタンザニアにて発足し、同国を拠点にしてモザンビーク領内でポルトガルに対して独立運動を展開することとなる。タンザニアがフレリモを支援した理由:ジュリウス・ニエレレ大統領が民族主義者(パンアフリカ主義)であり、周辺植民地の宗主国からの独立はタンザニア独立と等しく重要であると考えていたため。
l アフリカでは1960年代に多くの国が宗主国から独立したが、ポルトガルを宗主国とする国(モザンビークやアンゴラ)が独立を達成するのは1970年代の声を聴いてから。欧州の弱小国であったがゆえに植民地への依存傾向が高かったことに加え、サラザールの独裁が諸々の都合により1970年まで続いたことがその理由と言われている(本来であればポルトガルの独裁体制は英米から批判される背景であったが、ポルトガルが大西洋上に持つアゾレス諸島の軍事的重要性を踏まえて、米英はポルトガルに対して甘かった。時はすでに米ソ対立の冷戦状態でポルトガルがソ連側に下るというのはアゾレス諸島に空軍基地が建設されることを意味していたため)。
l フレリモにはモザンビーク全土から国士、勇士、活動家など独立に向けて強い意思を持つ人間が集まっていたが、組織内の権力闘争は凄まじいものがあった。特に植民地経済の中心だった南部出身者(モンドラーネやのちに大統領となるサモラ・マシェル、ジョアキン・シサノ)がフレリモ内の主要ポストを固めたことは北部出身者の強い不満や反発を生んだ。また、血統主義的な点もあり、先祖に白人の血が入っていることが組織内で反感を買うこともあった。反フレリモ主流派(主に北部出身者)は後にレナモを発足させ、フレリモと対立していくこととなる。
l 1963年、ポルトガル植民地政府の横暴に対してロレンソマルケス(現マプト)港で港湾労働者たちがストライキを実行。元々、植民地政府に対して不満を持っていたモザンビーク人の間で瞬く間に暴動へと発展し、フレリモもポルトガルに対して組織的戦闘を開始した。タンザニアに置かれていたフレリモ本部(バガモヨ・センター及びナチングウェア・センター)にてフレリモ幹部に対する初等・高等教育(読み書きそろばんからゲリラ闘争の方法論等)が行われていたという。
l フレリモ内対立の結果とも言えるだろうか、1969年に書記長だったエデュアルド・モンドラーネが暗殺される。ポルトガル秘密警察の暗躍やフレリモ内反主流派の仕業と言われるが、真相は闇の中である。尚、サモラ・マシェルがフレリモトップの座を継ぎ軍司令官となる。
l 1970年、ポルトガルのサラザール首相が死去し、ポルトガルでの独裁体制が終わる。1974年にはカーネーション革命が起こり、ポルトガルの政治体制が崩壊する。これが独立運動の決め手となり、ポルトガル―フレリモ間で停戦交渉が開始され、同年中に協定が締結される(ルサカ協定)。翌1975年に独立を達成する。
<独立後>
l 独立闘争の最中、ポルトガルVSモザンビーク という対立の中でポルトガル=親英米であったことから、必然的にモザンビーク(フレリモ)は親ソ連=社会主義であった。独立達成の前から元々存在したフレリモ内の反主流派や反社会主義者らは、ポルトガル植民地政府の秘密警察PIDEを中心に、白い三角同盟の一角であるローデシアの支援を受けて反フレリモ・反社会主義のレナモ(当時は英語名でMNR)を設立する。独立達成の直前、1974年のことであった。
l 独立の直後から、フレリモとレナモは内戦を開始。レナモはローデシアの支援を受けて同国領内に潜伏しながら、モザンビークの町・村・公共施設へ越境攻撃を繰り返した。1980年代にレナモの攻撃は一層激しくなり、文字にするのも憚られるような暴虐の限りが尽くされたという。
l 他方、ローデシアでも政変が起きようとしていた。モザンビークと同様に少数の白人(英国人)が大多数の黒人を統治する図式だったが、矢張り宗主国からの独立を目指して黒人民族主義運動が活性化。モザンビークがポルトガルから独立したことは、同国との1200キロを超える国境線を持つローデシアの黒人民族主義運動をさらに活性化させ、最終的に1980年にジンバブエとして黒人国家が誕生することとなった。
l ローデシアにおける混乱と政変によりレナモの攻撃は収まるかと思われたが、そうはならなかった。白い三角同盟の最後の一角である南アに接近したのである。南ア白人政権は元々白人国家であったモザンビークとローデシアがまるでオセロのように次々と黒人国家へと変わっていくことに危機感を感じていたこともあり、レナモの接近(=モザンビーク・フレリモ政権の不安定化、理想的にはフレリモ政権の打倒とレナモ=資本主義政権の樹立)は渡りに船であったと言える。
l スパイマスターのチェンジが成功したレナモは南アの支援を受けて再びフレリモ・モザンビークに対する攻撃を開始する。レナモ攻撃に悩むモザンビークのマシェル大統領はソ連へ支援を打診するが断られたため、南アとの和解(南アによるレナモへの支援停止)を求めて米国へ仲裁を依頼。アフリカにおける東西冷戦の本格的戦争化を嫌った米国は南アに対して強く働きかけ、1984年に相互不可侵善隣条約(俗にいうンコマチ協定)を締結した。これにより南アによるレナモ支援は(表向きは)停止となった。
l 1986年、謎の航空機事故によりマシェル大統領が死亡する。マラウィのバンダ大統領との会談直後であった。本会談はモザンビーク、マラウィ、ザンビア、ジンバブエの4大統領による会談で、マラウィによる対フレリモ工作の停止要求であった。喧々諤々の議論をしたものの、会談は不調で対フレリモ工作の停止要求が通ることはなかった。そしてその夜、モザンビークに帰国するためにマシェル大統領が搭乗した飛行機が、謎の墜落事故を起こすのであった。この墜落事故は南アが黒幕ではないかと言われているが、事故に関連する文書が南ア白人政権から黒人政権に移行する際に「すべて紛失」してしまったため、真相は闇の中である。
l マシェルの後任として、ジョアキン・シサノがモザンビークの第2代大統領となる。
l 1989年のベルリンの壁崩壊、1992年のソ連崩壊により国際政治の枠組みとしての冷戦構造が崩壊。これにより東西両陣営からの戦略的支援が打ち切られ、モザンビーク国民内にも内戦の疲弊や一党独裁(社会主義)の限界、資本主義を求める声などが高まり、ソ連崩壊と同年の1992年にフレリモ―レナモ間で和平合意が成立した。
l 和平合意後は第2代大統領ジョアキン・シサノ、第3代大統領アルマンド・ゲブーザの両大統領の時代(2014年まで)にモザンビークは年率6~7%という飛躍的な経済成長を遂げる。尚、2008年にレナモからMDM(モザンビーク民主運動)という第二野党が誕生する。党首はベイラ市長デイヴィス・シマンゴ。フレリモ創生初期にエデュアルド・モンドラーネ党首を支える副党首を務めたウリア・シマンゴの息子である。
l 2014年にフェリペ・ニュッシが第4代大統領に当選した。モザンビーク大統領の任期は5年なので、来年には大統領選なのか。。。?再選を果たせば2024年までニュッシ大統領の時代となる。
隠し債務やODA資金の軍需設備転用などが発覚し国際世論からの冷たい目線が刺さるモザンビークだが、日本の2倍の広大な国土、内陸国まで続く大きな河川、温暖な気候と綺麗な海岸線、近年発見された天然ガス、堅調な人口増加率と隣接する南アという巨大市場があり、その成長潜在力は申し分ないという。実際、日本にいたころはあまり考えたことのなかった「発展している感」を実感することがとても多い。
自分が住んでるのは田舎のイチ農村ですが、とりあえず、ダイナミックに動く経済に負けない様に頑張って活動します。
旅行とかのお話(世界遺産から世界遺産まで)
ども、小倉です。
実は今日が夏季休暇明け初出勤でした。1か月まるっとの休みは日本ではあまり経験がなかったものの、前半2週間(どころか3週間弱)は国内外の旅行だからそんなに暇を持て余すことはないだろうと思っていました。
最後1週間ひますぎわろ
旅行中に協力隊同期から頂いたドラマ・映画・アニメなど貪るように観賞しましたが、座りすぎで腰痛い。
外を出歩けばいいものの、めんどくさがりの本領発揮。
国外旅行中に美味しいもの食ったから太っただろうなぁと思っていましたが、たぶん旅行後のこの「だらだら」「ぐでんぐでん」してるのが一番インパクト与えた気がする。
今日は自分が確りと出勤できるかという点で一抹の不安がありましたが、何とか出勤することができました。とりあえずよかった。
さて、一部Facebookでもお伝えしているように携帯が使えなくなりインターネット及びSNSへのアクセスが気軽にできなくなっている(PCのみでアクセスしている)今日この頃ですが、
幸いにも旅行中に撮った写真やら動画やらはだいたいをPCに移していたので、旅行記は書くことができます!
というわけで、今回は任国外旅行について。
- 任国外旅行とは!!!
- 今回の旅程
- ビクトリアフォールズ!
- サファリ(サウスルアングワ国立公園)
- リロングウェ
- ブランタイア
- チャンピラプリズン
- リシンガ(というかその前後の旅程)
- モザンビーク島
- 終わりに
任国外旅行とは!!!
正確な定義は他ブログでも紹介されていると思うので簡単に言うと
「任国(自分の場合はモザンビーク)以外の国に(私事目的で)旅行すること」ですね。
私事目的でと書いたのは、もちろん業務であれば公務出張ということになりますから、それ以外ってことです。
そんで当たり前ですけど、ボランティアというとても曖昧な立ち位置ながら皆さんが納めてくれた税金を使って主に途上国で生活しているわけですから、この任国外旅行にもいくつかの制限(ルール)があるわけです。
とまぁこんなもんでしょうかね。
まぁ協力隊になりたい人でなければ、あんまり知らなくていいことかと思います。協力隊になった人でも、旅行ができるようになる時には先輩とかから色々と話を聞けていると思うので、矢張り特に注意して覚える必要はないっすねw
自分の場合は
任国=モザンビーク
渡航可能な国=南ア、ジンバブエ、ザンビア、マラウイ、タンザニア、ケニア、マダガスカル*1
って感じです。
この辺も協力隊になったらハンドブックってのをもらえてそこに書いてあるので、特に覚える必要はないっすね。ただやっぱかなり興味がある分野なので覚えている人は多いかもしれないです。
今回の旅程
さて、それでは今回の自分の旅程を見てみましょう。
7/24 モザン出国 → 南ア
25日 南ア出国 → ザンビア(リビングストン)
29日 リビングストン → ルサカ
31日 ルサカ → ムフエ
3日 リロングウェ → ブランタイア
4日 ブランタイア → リロングウェ
5日 リロングウェ → チャンピラ
6日 チャンピラ → リロングウェ
8日 マンディンバ → リシンガ
9日 リシンガ → クアンバ
10日 クアンバ → モザンビーク島
13日 モザンビーク島 → リバウエ(任地)
旅程を書きだしただけでも結構バカみたいなことがわかる(8月2日
からはほぼ毎日移動している)けど、多分地図を見たら余計にわかる。
ビクトリアフォールからモザンビーク島までの直線(寄り道なし)でも2000Km超えてるのに、、、寄り道してたからなぁ。3000Kmくらいいってるのかも。
あ、全部陸路です。
それではダイジェスト的にお届け
ビクトリアフォールズ!
いきなり持ってきた旅のハイライト。観光面についてはここですでに旅の半分が完了しています。昼間のビクトリアフォールズはミステリーハンターゆきのとちよちゃんの解説とともにどうぞ。あ、これ音ちっちゃいっす。
4日間の滞在でしたが、昼2回に加えて夜2回も滝公園内に入り、それだけで約100ドルも使いました。バカかw
まぁでも、色々と楽しめたからよかった。
宿もゲストハウスでしたが、なかなかのクオリティで本当にいいところだった。テンション高めイギリス人が俺のベッドの上だった。かわいかったから許す。
サファリ(サウスルアングワ国立公園)
はい、ここで観光面が100%完了します。観光したのはザンビアだけってことですな。
俺はここが人生初のサファリでしたが、非常に楽しめました。惜しむべきは出費。もう少し早く予約をしておけばよかったかもしれない。。。でも早く予約してたら遭遇できない体験*2もしたので、プラマイゼロですかね。
特に、ヒョウは他のサファリでもあまりお目にかかれないと聞いていたところを見れたのはめちゃくちゃうれしかった。
でも単純にヒョウが綺麗で惚れた。
リビングストンの宿で出会ったイギリス人旅行者とも再会した。Facebook聞いとけばよかった。。。
ここからマラウイまでの道のりはたまたま知り合ったスウェーデン人夫婦と共に行動。
リロングウェ
リロングウェではマラウイの同期隊員宅にお邪魔しました。現役JOCVの中でおそらくトップクラスの年齢と包容力を持つ男、リョーマさん。
飛び石で3日間泊まるという、なんとも迷惑な泊まり方をさせてもらいまして本当にありがとうございました。お好み焼きうまかったなぁ。
アイフォン壊れたせいで写真がない。。。
ブランタイア
マラウイ最大の商業都市でも同期隊員宅に宿泊。さすがに発展しててオシャ店多し。
チャンピラプリズン
マラウイ最大の観光地を忘れていた。ここで観光面が200%完了します。
諸事情により今後プリズン訪問はできないらしいので、非常にいいタイミングでした。
リポート動画を撮っているんですが、さすがにアップロードできないので見たい方は俺と会ったときに見てください。
今回最も驚いたのは、現在プリズンと呼ばれている住居が、2代前のJOCVの時にはおしゃれカフェみたいな家と呼ばれていたらしいこと。なんでも人で変わるもんですね。
新ハウスはお洒落なカフェ(看板犬コハル)で非常に居心地よかったっす。
リシンガ(というかその前後の旅程)
リシンガではヨーグルト飲みました。あれはうまかった!!
滞在半日ですぐに出ていくという、なんともバカみたいな旅程を組んでしまったせいでそれ以外のことはしていないんですが、あれ飲むだけでリシンガ来た甲斐があった。
あと、リシンガに来ようと思う方は陸路(シャパ)はやめた方がいいです。
俺はもうあんなシャパには乗りたくない。。。
口の悪いコブラドール(集金係)に始まり未舗装道路の凸凹、舞い上がる砂塵、真っ赤になってしまったバッグからモザン人同士のケンカ・パンクまでフルコースでした。
あんなにも上質なフルコースなら畏れ多くて逆に二度と味わいたくない。こわすぎ
モザンビーク島
モザンビーク島のことについては前回の記事をご参照。
終わりに
終わりに、とか勝手にカッコよく決めようと思ったけど、やっぱいいっすわ。
当たり前のことだけど、
旅行くそ楽しかったっす。
異常
日本文化紹介!!@モザンビーク島
ども、小倉です。
昨日のFacebook投稿通りに今回の任国外旅行について時系列で書こうと思ったのですが、
- ネタが多くてまとめるの時間がかかりそう
- プライベート旅行の部分よりも、旅行の締めくくりであるモザンビーク島での疑似活動の方を優先度高くした方がいいんじゃね(おれ主催者じゃないけど)
- なんかそんな気分
ということで、ちょっと順番を変えてモザンビーク島での日本文化紹介イベントについて書いていこうかなと、思いやす。
純粋な活動に加えて広報的な部分も協力隊の重要な活動(っていうか使命って感じ?)であるという、
あんまり活動していない人間が少しでも活動しているチックに振舞える(人の褌で相撲を取る)逃げ道的なところも多少はありますがw
まぁ、それでもやらんよりはやった方がいい!ってことで、まぁ、はい。
日本文化紹介イベントとは?
読んで字のごとく、任国であるモザンビークに対して、日本の文化を紹介するイベントです。モザンビーク島(世界遺産の島。モザンビークの旧首都)で開催するのは今回が2回目(?)らしいです。他都市で開催してるかはよく覚えていませんが、モザンビークでは「~~~の日」みたいな感じで夫々の市または街の日が設定されていまして(例:ナンプラの日、マプトの日.etc)、その日はそこの街のみ休日になり祭りが開催されるので、協力隊員がいるところは主催者側に事前に相談したうえで時間をもらい、ソーラン節を披露したり日本食を振舞ったりなんていうのが結構あります。
これは他国でも同じ感じですかねー、よくわかんないっすけど。
で、今回の日本文化紹介イベントは、特にモザンビーク島の日ではなく(!)*1普通の土曜日にやったんですが、それでもかなりの人が集まって盛大に開催されました。任地でもこういうのまじでやりたくなった。周辺に隊員がいるかいないか、日本人がいるかいないか、人が集まる場所かどうか等考慮すべき点は多くあると思いますが、控えめに言って今回のイベントは楽しかったし、いろんな人が見に来てて主催者がすごい羨ましかった。やりたい人いたらおススメです。
さて、そんな今回のイベントの主催者ですが、モザンビーク島を活動拠点とするボランティア2人がやってくれました。そして、ナンプラ州を活動拠点とするボランティア5人がメインスタッフとして参加し、南部州からもボランティア4人が旅行+ヘルプとして手伝ってくれました。(ちなみに俺はナンプラ州だけど色々事情があり「サクラ」として参加してました)
イベントコンテンツ及び掲載物
JICA紹介
日本紹介(和服体験、日本食試食、バンド、ソーラン節)
日本食(刺身とお茶)撮るの忘れた。
YASUKE
ai se eu ti pego@モザンビーク島 YASUKE
モザンビーク紹介(モザンの食べ物、ダンス)
特に仕事とは全く関係ないのに主催者側として手伝ってくれたモザンビーク人がいて、なんかそんなところに結構感動した。
日本人(ボランティア)と仲いい訳を聞いたら、昔のボランティアが市内を歩いているときにモザン人側から日本語で話しかけたことがきっかけらしい。その前にカナダ人から日本語を習っていたんだって。
カナダ人から日本語を教えてもらったモザンビーク人がモザンビークにいる日本人に話しかけて、その人が日本へ帰った後も後輩隊員と関係性が続く。いいっすね。
あと、今回個人的に度肝を抜かれたのはバンドでした。
最初はカントリーロード(日本語バージョン withモザンの子供たち。動画上げようと思ったんだけど動画長すぎて断念)だったんですが、その後にモザンで流行っているブラジルの歌やマクワ語(現地語)の歌(上でYOUTUBE貼ってるやつ)を始めたときには、ギャラリー熱狂。
会場熱狂。
はんぱねーw
音楽っていいなと再認識。
語学頑張るかと再確認。
という感じでイベントはかなり盛況でした。
そんでイベント後の打ち上げでは有名なKARIBUにて。
美味!!!
やっぱモザンビーク島いいところだわと感涙。
写真こそ撮り忘れたけど、かぼちゃのプリンも最高でした。
あと、Bar Florの眺めとカイピリーニャも最高でした。
あーーー!お疲れっした!
Nakossoっていうイベントについて(7月にやったやつ)
それなりにOn-timeでブログを書いてきましたが、今回は振り返り的な感じです。
「鉄は熱いうちに打て」の言葉通り、できればこういうのは早く書いてしまった方がいいんだけどね。。。気分が乗らず、1か月遅れで思い出しながらの寄稿になります。
本当は今すぐにでも任国外旅行記を書きたいんだけれど、先に旅行記を書いたら絶対にこっちの活動に関するブログを書かない気がしたので、何とか頑張ろうかなと。
時は遡りて1か月ちょい前!
ボランティア総会とイニャンバネ視察を終えた自分は、7月6日~7日の2日間の日程で開催が予定されていたNakossoと呼ばれる農業イベント@任地Ribaueに参加するため、7日早朝便(朝6時発)に乗り込むべく朝4時に起床。4時半にはドミトリーを出発して5時には空港に着いていました。
今回マプトへの往路ではLAMが12時間弱の遅延というスーパーファインプレー(14時発→25時発)だったので復路Fastjetも遅延するのではないかと思っていましたが、LCCであるにも関わらず意味不明な遅延もなく、OntimeでTakeoffしてくれました。なんやFastjetさん、神様やないですか。
そんでそのまま遅延なくNampulaへ到着。大急ぎで任地Ribaueへ。
Nakossoは朝8時から夕方5時までの開催だったのですが、モザンビークだし午後になったらみんなだらけて活気がなくなるだろうと思ったので、なるべく早く着きたかったのです。
大急ぎの甲斐あって12時頃にはRibaueに到着!
「よかったー、フライト遅れたらどうしようかと思ってたけどこれでイベント参加できるわー」と思いながら開催地であるサッカーグラウンドへ行くと。。。
やってない。
え
なんで
っていうか、なんか今会場設営してるやん
会場設営している奴に聞いてみた。
俺 「Nakossoって、昨日今日(6日7日)だよね?」
モ 「いや、来週の水木だよ」(即答)
イニャンバネ視察を早めに切り上げた意味ー。
朝4時とかに起きた意味ー。
フライト遅れるんじゃないかとかドキドキしてた意味ー。
フライヤーとか農家に渡してたじゃん俺がマプトいく前ー!どうしてんの?
モザンビーク政府に加えて、Sustenta(世銀プロジェクト)、スイスドナー、ETG(日本=インド系企業)なんかが協賛してるっぽかったし、フライヤー刷って渡してたから日程変更はないと思ったんだけど、、、
やっぱ、、、うん。
ま、ポジティブに捉えれば、2日間のうち半日しか参加できなかったのが全日参加できるってことだ!
というわけでこの週はそわそわしながらあまり活動も手につかず、また延期になるのではないかとそわそわしながら過ごしていました。が、
ついにその日は来たり!!!!
1日目
2日目
2日間は完全にカメラマンしてました。みんな「俺を撮れ!!!!」ってうるさすぎw最終的に400枚近く撮ることになった。
アフリカ(モザンビーク?)の人は写真撮るだけで満足で特に欲しがる人いないとかって聞いてたけど、ぜんっぜん嘘じゃん。
みんなめっちゃ欲してくるじゃん。
撮った写真のデータをどうやって渡すか、っていう点は今後もう少し考えようと思います。今回はイベント主催者のPCに入れて、各自USBを持っている奴がそこからコピーする戦法を取りましたが、メールで送るとかになると手間かかってアホらしいしなぁ。どこで撮るかでだいぶ変わるかもしれないけど、撮るときにはそれなりに考えていこうと思います。
ってか、びっくりしたこと。
1日目 テレビカメラ&州知事が本当に来た(事前情報はあったが、どうせ来ないと思っていた)
2日目 農業大臣が本当に来た(事前情報はあったが、どうせ以下略)
真面目なことを少し書くと、上記のような大物ゲストやらメディアを迎えられたし派手な感じとか露出的なものはすごくあったからイベント自体の価値はあったと思うんだけど、そもそもこのイベントが「(農家側の)市場へのアクセス」がキーワードになっていてサプライヤー側が多く出展していた一方であんまりバイヤー側が来てなかったことを考えると、本来のイベントの目的達成度はあんまり高くなかったのではないかと思っ
てしまう。。。
1日目も2日目も、午前中は(ゲストも来たから)みんなそれなりに元気にしてたけど、後半の失速は結構ひどかったからなぁ。
まぁ、やることが大事とも思うから、仮に来年もあるとしたら次回はその辺を提案してみてもいいかもしれない。
なくてもこういう視点を持ってもらえるように協議してみるのもいいかもしれない。
仮にないとしたら主催者側として企画してみるのももっといいかもしれない。
とりあえず、いい経験になりました!ちゃんちゃん。
総会・イニャンバネ旅行と現地語習得の幕開(マクワ)け
ども、小倉です。
ちょっと久々のブログ執筆です。1か月くらい空いたな。今日は題名の通り、総会とイニャンバネ旅行(で感じたこと)について書きたいと思います。
総会について
モザンビークでは今年から1年に2回、モザンビーク全土に散らばる隊員に対する事務所側の情報共有や隊員間での情報共有その他を目的として、総会をやっています。
首都に上がったのはたったの4か月振りだったんですが、驚くのはその首都っぷり。まごうことなき首都。高いビル。車の多さ。外国人の多さ。お洒落な人の多さ。
NTCにいるときにも、訓練終盤で東京に来た時に半端じゃない都会感を味わいましたが、それに匹敵する、というかそれ以上に味わいました。大学に入学したときに一人暮らし始めたときレベルに緊張した。笑
そして、マクワ語(ナンプラ州の現地語)の伝わらなさ!!(モザンビークでは公用語のポルトガル語に加えて、だいたい各州のレベルで現地語が存在します。そんで俺の任地の人はポルトガル語も喋れる人いるけど、みんなマクワの方が好き。マクワ語喋る方が心を開いてくれる。)
ドミトリーの警備員で一人ナンプラ出身の奴がいて、そいつが唯一、マクワ語で喋れる相手でした。任地にいるとマクワ語なんて全然喋れなくて、逆にマクワ語で喋りかけられると構えてしまうし、わからないことがあると「ポル語で言えや!ポル語で言われてもわからん事あるけど」みたいな感じになってしまうんですが、首都に上がってマクワ語が全く聞こえない状況だと、逆に不安になってしまう。人間の適応ってのはなんかすげぇもんだなぁと。まぁ、そいつにも俺は挨拶と自己紹介くらいのマクワ語しか話せないんですが。笑
そんな訳で、やっぱり任地と首都は全く違うな、というのが(当たり前ですが)率直な感想でした。いろんなレストランあるし(でもその分金が飛んでいく)。
でも、やっぱり人の付き合い方が都市だなと。田舎ではないなと。それも強く思った。メリットもデメリットも両方ある。田舎にいると先進的で優雅な生活に憧れるし、都市部にいると血みたいに濃い人付き合いに憧れる。そんなもんなのかなと。どこの国でもそれは変わらないのかなと。多分自分以外の人も。
(以前の総会を知らないけど)総会はかなり真面目な内容でした。これまでベースにしてきた地域ごとの発表・議題から隊員の活動分野ごとの分科会への変更・キックオフ。ちょうど自分の隊次が到着したときに以前の総会が終わって、新代表たちが準備してきた初の総会。メンバー刷新もさることながら、内容の一新も加わり今回の総会運営は相当に大変だったと思う。どんなことをしたいか、を自分たちで議論して内容を詰めてから、JICA側と交渉。そこで出たコメントに対して再度代表者たちで議論を行い、回答し、JICA側の返答を待って一つ一つを前に進めていく。文章書いていても面倒なことを実務としてクリアしていかなければならなかった訳ですから、本当に大変だったと思う。代表者たちには感謝です。これは結構マジで。
自分とその次の隊次(2017-4)はある意味お客さん的な感じで今回の総会に参加してましたが、次回からはホスト側でやらなければならないなぁと、ちょっと気を引き締めていこうと思います。少しずつ。
あと全然総会には関係ないけど、次首都に来た時にはホストマザーにも会っていこう。
イニャンバネ旅行について
総会後にイニャンバネ州に行ってきました。元々はトーフビーチに行きたいだけだったけど、せっかくなので他の隊員の活動を見せてもらいに。
トーフビーチは、半端じゃなかった。どれだけ半端じゃないかというと、
これくらい。
トーフビーチを経て、ジャンガモ・イニャリメ・ザバラへ行きました。
ジャンガモはSDAEの女の子かわいかった。イニャリメではスイス人のいい奴と会いました。またサッカー一緒に見たい!インパラの会社なのにマニカばっか飲んでたなー笑。(アサヒで働いてるのにプレモルばっかのむ的な感じです)ザバラは海と湖が陸地をサンドイッチしている場所で、Paraísoでした。終始「えぇっぇ!?」って言ってた気がする。天気が良くなかったのが無念。リベンジしたい。
今回の旅で、「ポテンシャル」という言葉の意味を再確認した気がする。自分の任地(リバウエ)は「農業ポテンシャルが高い地域」と言われている。気温もそこまで高くならないし、全然開発されてないけど地理的に重力を使った灌漑が可能な農場が結構あるし、最近国道・鉄道が整備されて物流面も改善されつつある。これから街が発展する可能性が大いにあるということだ。
でも現在のレベルでいえば、イニャンバネの方が街が発展していた。住んでないとわからない微妙な差かもしれないけど、街の人の服装も少し小ぎれいだった気がする。首都に近いし、綺麗なビーチがあるから外国人観光客も来るから、リバウエよりも(町も人も)金を持っているのは当然と言えば当然。でもなんか、自分の任地の田舎っぽさに一瞬悲しくなった。
でも、少し考えてみればわかる。JOCVとして来て、任地の田舎っぽさに悲しくなるのは自分の存在の否定みたいなもの。だってみんなが小ぎれいな恰好をして綺麗な街に住んでいるとしたら、(分野によるけど)コミュ開なんかいらない。ではないからこそ、だからこそ、JOCVが派遣されている。自分の任地が田舎っぽいことに悲しむのは今の自分の役割を思い起こせば有り得ないこと。(極端な言い方ではあるし、だれかを攻撃するものでは絶対にないけど)そもそも発展しているところにJOCVなんかいらない。
多分、これからもこの類の葛藤(というか自問自答)は出てくるんだろうな。でも確りと毎回自分で答えを出せるように、目を見開いていきたい。
現地語習得について
任地に帰ってこないだから現地語ティーチャーを付けました。これまでは主に同僚・農家たちから単語を教えてもらって、覚えるという感じでしたが、彼はわかりやすく文法を教えてくれます。
最高に有難い。
実は現地語は自分がこれまで習ってきた言語とは、色々と異なる部分が多い。一つ大きな違いは、活用・変化が「語尾」ではなく「語頭」でやることが結構ある、ということ。多分スワヒリ語とかもそうだと思う。同じバンツー諸語だし。
彼には月4回のレッスンをお願いしていますが、もう少し自分で自分の活動がコントロールできるようになったら、増やしてあげるのもいいかもしれない。
そんな感じで、今回の記事はそろそろ終わりにしようかと思います。
旅行から帰ってからの農業イベントの方も今度書くかもしれない!その前に旅行記になるかもしれないけど。
というわけで、見てくれた方、あざっした。